私の見性とは何か!

私の見性とは何か!

 

人生は、悩むことと、ゆき止まりの連続である。

 

まして、俗世に生きる私も、その連続の中に身を置いている。しかし、この世には立派に修行し、悟りを開いて、なおかつ修行を続けておられる人もいる。

 

平成二十八年は、鈴木大拙居士の没後五十年にあたるそうである。

 

大拙居士は、若き日に、円覚寺において当時の管長 今北洪川老師に参禅し、洪川老師が亡くなってからは、そのお弟子の釈宗演老師に長年参禅されたそうである。釈宗演老師の勧めによって渡米し、その深い禅体験をもとに、仏教や禅の書物をたくさん英訳され、禅の教えを広く世界に広められたそうである。そして、その書物は、今も多くの人に読まれているという。

 

その大拙居士が晩年のこと、ある修行の学生が「先生の見性とはどういうものですか」と尋ねられた。大拙居士は、「衆生無辺誓願度がわしの見性だな」と答えられたという。

 

「見性」とは「を見る」ことであり、禅門では、各々の本性を見ることとして、「悟り」のことを表す言葉として用いられている。禅の修行をする者は、誰しも「悟り」を目指している。自ら禅を修め、さらに世界に仏教を広められた稀代の学者に、若き求道の学生が、悟りとは何かを質問したのである。
それに対する大拙居士の答えが「衆生無辺誓願度」であった。

 

いのちあるものは限りないけれども、誓って救われんことを願う。人のために尽くそうという願いを持つことであるという。

 

人生、生きている限り、かくありたい、仏性につつまれて生きたいものである。

 

今年の夏(2017年夏)は、ことの他に暑い日が続いている。この生を、人の為に尽くすことの大切さを、教えられた思いである。