「言葉の力とは」
令和3年9月20日
ある雑誌に、「言葉は力」という特集があった。
花は美しいが、水をあげることで生気をもち、自慢気に花を咲かせる。花の命の元は、水である。
一方、人間の命の元は何だろう。
それが言葉であることを、我々人間は気づいているだろうか。
美しい言葉、心を鼓舞する言葉にどれほど励まされてきただろうか。逆に、汚れが花を枯らすように、人を貶(おとし)め損なうような言葉は人の心を腐らせ、滅ぼす。心をどういう言葉で満たし、潤しているか。それがその人の人格を決定し、人生を決定する。
そうして、言葉の人間に及ぼす力の大きさを、私たちは忘れてはならない。
ふと我を見返すときに、言葉の力がこれまでも大きな転機になり、人生を乗り越えてきたことを実感する。
そして、その雑誌の特集は、強く心に残った禅の高僧、松原泰道師から伺った話を紹介してくれていた。
それによると、「A氏とB氏は、二十年来の俳句仲間である。共に経営者だが、経営の話などしたことはない。
ところが、B氏が事業に失敗する。再建に奔走するが方策尽き、やむなくB氏はA氏に援助をお願いした。黙って話を聞いたA氏は、「私にとっては大金なので即答しかねる。明朝九時に拙宅にお出でいただきたい。」と答えた。
翌朝、約束の時間にB氏はA氏を訪ねる。通されたのは茶室だった。だが、A氏はなかなか現れない。茶室の床の間に、一幅の軸が掛けられていた。書かれているのは筆太の文字で「南無地獄大菩薩」。
もし願いが叶わなければ破産、自殺するしかない今の自分を迎えるのに、こんな軸を掛けるとはどういうつもりか、とB氏は苦味を飲み下すように思いながらA氏を待った。だが、それでもA氏は姿を現さない。やむなくB氏は床の間の「南無地獄大菩薩」を見つめていた。すると、その文字がじんわりと心に沁(し)みてくるような思いにとらわれた。
今までの自分は地獄から逃げよう、逃(のが)れようとばかりしていた。だが、自分が直面している現実からは絶対に逃れられない。ならば思い切ってこの地獄に飛び込み、死んだ気になってやってみよう、という思いが湧き上がり、次第にそこに固まっていった。
決意が定まると、心の中に一条の光が射し込むような気がした。
その時、A氏が現れた。待たせた詫びを言い、一服の茶をすすめる。飲み終えてB氏が礼を言うと、A氏が質問した。「この軸は白隠の書いたものだが、何かを感じましたか。」
B氏は答えた。
「この文字が私に初めて、人間の嫌う地獄を大菩薩と素直に受け入れる気持ちになれ、ということを考えさせてくれました。」「破産の痛手に自決を覚悟していた私には、この軸は天来の教示です。すぐにおいとまして、地獄の底破りに努力いたします。」
この話の出典は、柴山全慶老師の『越後獅子禅話』である。」と松原泰道師から教えられたそうである。
言葉は偉大な力を持っていると同時に、その言葉を受け取る側の力量も問われるといっている。
人生において、どん底を味わい、ゆく道を八方ふさがりと決めているあなた。決して八方ふさがりではないことを信じよう。
真実の言葉を受け取り、受け入れるだけの人間の器量を養っておきたいものである。
先人の言葉に導かれることは、まだまだ多い様に思います。