自然界には四季があり、どんなに寒く凍えた冬も、いつかは川の水がとけて春になり、生きとし生けるものが活発な行動を始める。先日まで固くつぼみであった木々も新芽を出して、若葉香る季節に様変わりする。
これを人生に例えると、人生にも四季があり、中国の唐代の詩人がうまいことをいっています。
「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」
毎年毎年季節になると、きれいな花が咲くが、去年一緒に花を愛でた人は、今年はもういない。一年の四季は何度も巡ってくるが、人生の四季は一度限りであることを気づかせてくれる詩である。そう、人生の四季は二度巡ってこないものである。
人生の四季には、青春、朱夏、白秋、玄冬と中国古代の五行説はこう表現している。青春は二十五歳まで、朱夏は五十歳、白秋は七十五歳、玄冬はそれ以降と区切っている。そこでは、現役として社会活動をする時期は限りがあるものの、大事なことは、因果の法則を忘れないことである。善きことをすれば善きことが、悪しきことをすれば悪しきことが返ってくる。それが宇宙の法則である。
だからこそ感謝と感動、知恩報恩に生きる人生を全うしたいものである。
そして、七十五歳以降は玄冬である。この時代をどう生きるか。先哲の言葉に耳を傾けてみた。
それによると、「老」という文字の奥ゆかしさにはっとする。老いるとは、単に馬齢を加えることではない。その間に経験を積み、思想を深め、自己・人生を完成させていく努力の過程が大切だといっている。
つまり、学芸、信仰、事業などに感興を失わず情熱を抱き続ける老人こそ、不老の特別な人であるという。
そして三国志の英雄 曹操のあまりに有名なことばがある。
「老驥櫪(きれき)に伏すとも志千里に在り 烈士暮年壮心已まず」
一日千里を走る駿馬が老いて厠に伏しているのは、なお千里を走らんがためであり、雄々(おお)しい男子は晩年になろうとも志を捨てない.の意である。
人生の終焉がいつかは誰にも分からないが、その日がいつであろうと士気をもって人生を歩みたいものである。