論語2
なぜ論語なのか?
現代の日本社会に必要な精神とは何なのか。
「日本の礎」を築くのに、「教育」がその中心にくる事は当然の事である。昭和24年生まれの私は、学校教育において「論語」を学んではいない。中学校の漢文の時間に、学而篇の冒頭を簡単におさらいした程度である。そして、それは文学として紹介されただけで、徳操として授けられたわけではなかった。
いったい戦後に、どのような教育改革がなされたのか詳しくは知らないが、ともかくかつては初等教育の要諦であったはずの儒教的徳操が、建国神話もろとも排除されたのはたしかであろう。
すこぶる短絡的に、戦前の軍国主義と結びつくと考えられたのか、あるいは自由主義国家として再生する障害とみなされたのか、いずれにせよ相互に無思慮で乱暴な話である。
王仁が「論語」十巻を日本に伝えたのは四世紀の半ばといわれ、仏教の公的な伝来よりずっと早い。
その仏教に深く帰依した聖徳太子も、十七条の憲法を記すにあたっては「和を以って貴しとなす」という、「論語」の一部をまっさきに引用しているのであるから、少なくとも七世紀初めには儒教思想がわが国の徳操となっていったものと思われる。
徳川時代になると朱子学が奨励され、藩校においても寺子屋においても「論語」は至高の教科書であった。私たち日本人は、「論語」によっておのおのの人格を形成し、社会を構成してきたのである。
そう考えると、儒教教育の突然の排除は、無思慮で乱暴な話であるといわざるを得まい。私達の世代は、日本人が千数百年も拠って立ってきた道徳を、いきなり取り上げられのである。
昨今の教育現場でおきている様々な問題の正体は、そういうものではないであろうか。
次回から、論語にふみこみ入ってみよう。